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物語 ● 伝説 ● 歴史

開源材木店は北竿の最初御神輿を製造し、地元のたいてい棺おけも開源から出た。ここで伝説がある:材木店のパーラーに椅子が一つありました。ホストのお父さんにとする、「仙姑」がよく家を訪れるので、この椅子が誰がかってに座っててきませんでした。もともと「仙姑」はお父さん昔中国に出漁して出會う愛人た、政府の方針で兩岸探親を禁止し、この恋仲が別々の地に離れていました。「仙姑」逝去するまで、魂が塘岐にお父さんを追随し、互いにささえ合いながらいっしょに暮らしていました。

蕭王府は、塘岐住民にとって信仰の中心で、北竿扛乩(御神輿で神を通じる)の起源です。全島に名を馳せる蕭王府は、村内にある例祭で馬祖北竿の重要無形民俗文化財です。擺冥祭になると、北竿のすべて乩(神輿)はここに神際交流を進めます。蕭王府は清朝に遡及して、そのとき漁師達が台陸間通行する無事を願うために、古里から神仏の像身につけました。さらに、馬祖でテンプルを建設して、神靈を祀って、漁師達阿猛が信仰する蕭王爺のようだ。
あと蕭王爺信仰を広めて、しだいに社員が20戶まで増えました。民国50年社員が初めてお寺を成立し、だんだん今の規模になりました。

​蕭王府 

米問屋が担った任務は台湾からの穀米を集中的に処理することです。そのとき、米問屋3人だけで米袋の縫製と包裝を担当しました。穀物を精米した後、玄米と白米に分けられ、白米が國軍に、玄米が居民にそれぞれ分配されました。残った「米殼」は、「米糠」と言われ、養豚のために塘岐村居民が証憑書を持ち帰りできました。

​昔:米問屋 /今:図書館

昔の塘岐村には学校がありませんでした。「學堂」、学校として住民がここで勉強し、塘岐小学校が設立する前は授業をする場所が各地、例えば今の「茅草映画館の空き地」と「台江ホテル」にありました、塘岐小学校創立後にだんだんと場所が固定されました。民國39年、軍人は初めて學堂教師を担当し、学生が簡単な木製のベンチに座り勉強をしました。

昔:映画館 / 今:バスターミナル

今のバスターミナルは昔の映画館で、地元のお年寄りにとって、ここは家族や恋人、軍人などたくさんの楽しい思い出のある場所です。元々は北高指揮総部が建てたものでしたが、後にチガヤ(茅萱)を屋根に葺(ふ)き(≒敷き)、四面の壁は竹で建て直されたため、「茅草電影院」と呼ばれました。そのときの映画はカラーだったので、空いている座席がないくらい、一大センセーションを巻き起こしました。映画館でふだん上映している作品は、主役が凌波と李菁の「黃梅調」(伝統劇)で、 入場券などの金額は安く、座席番号を確認して着席していました。

​昔:北高福利社 / 今:協和古い工場

「福利社」というのは生活必需品を供給するところです。北高福利社は生活用品を販売するだけでなく、それ以外のサービスもありました。例えば靴や時計を修理したり、散髮したり、衣服を繕うこともできました。政府の方針で、個人のカメラ所有が禁止されると、福利社は家族のポートレートを撮影する場所になりました。それだけでなく、社員や部隊に食事を供給するために、毎日豚を一頭調理して十分な食糧を保証しました。

昔:塩館 / 今:小学校

小学校の前身は塩館で、塩の販売と貯蔵をする場所でした。その昔、塩は、漁業における魚の処理と保存のために大切な役割を果たしていました。民国38年、国民党軍が馬祖に進駐後、鹽館を解体し、残された石塊は白沙村の鋪石に使われるため運ばれました。一方、建物の材木は、木棺材として使用されました。二、三年後、全部の鹽館が解体されました。

季節労働である漁師達は、時間に余裕があるとき、アヘン館を経営していました。この状況は国民政府が台湾に本拠地を移すまで続きます。住民にとってアヘンは胃痛緩和の効果があるので、ほとんどすべての村の人はアヘンを吸っていました。一部の人々は、青梗菜の種のように種を碾いて、ポットサイドステッカースープに入れるとおいしいと言います。

昔:公衆浴場 / 今:飲み物販売店

塘岐村では、昔は浴槽と水道の設備が不足していたので、住民と軍隊は(公衆)浴場でシャワーを浴びなければなりませんでした。木桶數、あるいは浴場入り次數の金額を計算し(5元一回)、それは今のニュー台湾ドル70元に当たる値段でした。「得天泉」はそのとき最高の公衆浴場で、マスターの開発井技術として名を馳せました。

昔:開源材木店 /今:住宅 
昔:アヘン館 / 今:観光スポット
古:小学校 / 今:観光スポット
古:小学校 / 今:観光スポット
古:最初の食堂 / 今:観光スポット

マスターの倪さんが軍隊で料理を担当し、福澳と牛角の食堂で働いたことがあります。そのときは電力は乏しく、車に食材保存の冷蔵庫もありませんでしたので、食堂が照明としてガス灯を設置している市場に、毎日步いて新鮮な食材を買いに行きました。手作りの魚の肉丸子とつみれ餃子が入って深いコクが風味を引き立てている、有名な「魚麵」はまだありませんが、たくさんの美食家が食堂に集まりました。

古:小学校 / 今:観光スポット

もともとの僑仔と塘岐をつなぐ森の近道は、数年後に歩道になりました。塘岐の町内会は民国100年にこの地を整地し、現在の蝶と花の谷の姿となりました。歩道を上に向かって歩いてゆくと、町内会の管理されているハーブ園が見えます。そこに有機農法でレモングラス、食用バラ、迷迭香、千寿菊、金銀花、ローゼルなどを主として植えました。熟す季節のたびに、町内会のおばさんたちが収穫し、加工し、包装し売っています。現在は、馬祖の地の観光名所になり大人と子供が遊ぶのに最適です。

古:小学校 / 今:観光スポット
迷彩の防空壕

この防空壕は、「奇数日は戦い、偶数日は戦わない」(or 「月水金は戦って、火木土は戦わない」)と言われていた中で、軍が市民のために提供していた小型の避難地ですが、経年によって荒廃しました。民国50年に、塘岐村の村民と現地の軍隊によって防空壕が作られました。また、中国災民救済本部も出資や協力を行い、工事は一年に渡り完成されました。今日、塘岐の町内会は、地域に芸術文化の雰囲気をもたらそうと台北から公共芸術の専門家の先生と美術家を迎え、この防空壕を含めた馬祖の生活文化と軍旅の文化に基づいた芸術文化政策を構想しました。

 

(「奇数日は戦い、偶数日は戦わない」という意味は国共戦争ところに月と水と金と日曜日は開戦日で、火と木と土曜日は休戦日の約束です。)

蝶と花の谷 
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